鍋島 Nabeshima

2010年11月07日

1 富久千代酒造の後継者として

富久千代酒造「鍋島」のはじまりは、1987(昭和62)年8月にさかのぼります。先代で父の謙次の事故を機に、三兄弟の長男で唯一の社会人だった私は、東京から帰郷することを決心しました。1988(昭和63)年10月、国税庁の醸造試験所(滝野川)に講習生として日本酒づくりの基礎を学び、そして研修生としてさらに6カ月。翌年の修了を経て、富久千代酒造を継ぐことになります。
当時の酒類業界は、酒類免許の緩和により、ディスカウントストアやコンビニエンスストア、大型スーパーマーケットなどの台頭で普通の酒屋さんが元気をなくし大きく変貌しようとしていました。そのような中、弊社の商品(富久千代・泉錦)は普通の酒屋さんが説明し1本1本手売りしていた銘柄でした(ディスカウントストアの棚に並んでも消費者自らが手に取る商品ではなかったのです)。このままでは、弊社の存続が危ぶまれたので、私は、父のモットーである「品質第一」を念頭に、「町の酒屋さん」と共に生きていこうと決意。講師を招いて小売店様向けに勉強会を開催したり、飲食店さんのPBラベルを作ったりするなど将来の姿を模索し色々なことにチャレンジしてみました。しかし、上手くいかないことが多く、一人迷いもがく日々が続きました。
町の酒屋さん=地酒専門店
posted by 鍋島 at 19:11 | 鍋島伝

2010年07月07日

2 転機〜新たな出会いと土台づくり

そんな私に、大きな転機が訪れます。父から、北九州で成功されている地酒専門店の田村酒店さんに行くよう勧められ、田村ご夫妻にめぐり合ったのです。後継者ご夫妻もしっかりされており、家庭的で和気あいあい。実に居心地のいい“町の酒屋さん”でした。妻とともに何度も店を訪ね、お話を聞く中で、それまで自分がやってきたことの間違いや足りない部分、これから進む道が見えてきました。
まずは、できるだけ何の色にも染まっていない若い小売店経営者にも田村さんの話を聞いていただき、若手の酒屋さんでこれから一緒に地酒専門店として日本酒の文化や楽しみ方を提案できる人材の掘り起こしを始めました。
このまま放っておくと酒屋さんがコンビニやディスカウントストアに転業したり、店をたたんでしまったりして、気がつけば佐賀から酒屋さんがなくなっていたという状況になりかねない危惧があったからです。とにかく県内に一軒でも多く、町の酒屋さんとして残って欲しい。ただ、その一心で、若手経営者を連れ片道2時間半の道のりを何往復しただろうか。
次に、その中の若手小売店4人と私で話し合いの場を持つようにしました。それぞれの仕事が終わり次第、蔵に集まり議論をし、気がつけば明け方になっていたことも度々ありました。同じ目線で考え、行動するパートナーシップが芽生えるとともに、消費者、売り手、造り手、それぞれの枠を取り払い、新たに物を創り出すことの大変さを実感するようになりました。
posted by 鍋島 at 19:12 | 鍋島伝

2010年06月07日

3 心に刻んだ、二つの人生訓

ここで、地元小売店の若手後継者4人との話し合いの中で話題に上り、私たちが感銘を受けたある人物の言葉を紹介します。その人物とは1885(明治18)年鹿島出身で、後に「青年団の父」として知られる田沢義鋪先生。
下村湖人の代表作『次郎物語』に登場する田沢先生のモデルであり、別著『この人を見よ』には田沢先生の偉業と金言の数々が記されています。


「故郷に錦を飾る」こと

田沢先生は、青年たちに「故郷に錦を着て帰ることを願う前に、郷土を錦で飾ることを考えよ」という地域主義を説かれています。これから“地の酒”として勝ち残るために、地元に密着して育ていくことの重要性を示唆してくれました。余談ですが、昭和60年前後、東京・上野の精養軒で故・梁取三義さんが主催していた日本酒の会に参加したご縁から、東京の有名な地酒屋さんを訪ねた際、こうアドバイスしていただきました。「まず地元を固めなさい、それからでいい」。あまりにも当たり前のことを言われ、悔しくて、悔しくて自分に足りないものを見透かされた気がしました。まさしく田沢先生の言葉そのものでした。

「平凡道を非凡に歩め」

「人間生活に必要な当たり前のことを人一倍、入念にやれば、その積み重ねが非凡な結果を生むことになる。一挙に非凡なことはできない」。この言葉は同じことの反復ではなく、問題意識を持ち、継続し続けることの大切さを教えてくれました。新しいことを立ち上げようとしている私たちにとって、何よりの戒めとなりました。
この二つの言葉は、その後の私にとってかけがえのない人生の指針となり、今も心の奥底に深く刻まれています。
posted by 鍋島 at 19:14 | 鍋島伝

2010年05月11日

4 “夢”に日付がついた時〜「鍋島」の誕生

1997(平成9)年4月、目標とする酒はできたのですが、肝心の銘柄を決められないでいました。(「鍋島」と名付ける前)苦肉の策としてこの酒を出来映えを消費者に試飲していただき、その反応を見るため「富久千代 天」という仮のラベルで、特別純米酒と特別本醸造の二種を出荷しました。評判は上々で、これでいける!と自信を深めることができました。 そして、新しい銘柄は、一般公募で決めることになり、地元の佐賀新聞社様に記事(平成9年10月17日)として取り上げていただきました。県民の皆様方とともに新銘柄を作り上げ、末永く愛される“地の酒”に育てていきたいと考えたからです。
寄せられた150に及ぶ候補の中から、コンセプトの「佐賀を代表する地酒を目指して」にふさわしい名前として、「鍋島」を選ばせていただきました。江戸時代、約300年にわたって佐賀藩を統治した鍋島家にちなんだもので、「鍋島」の商標使用にあたっては、財団法人鍋島報效会を通じて鍋島末裔の方に快く了承していただきました。
1998(平成10)年4月、構想から三年を経て、ついに「鍋島」デビュー。商品として特別純米酒「鍋島三十六萬石」と特別本醸造「肥州鍋島」という二種の「鍋島」を世に送り出しました。マスコミの方々にも多数取り上げていただき、順調なスタートを切ることができました。夢を実現するために注ぎ込んだ膨大な時間と労力が報われただけでなく、これから“地の酒”を育てていく大きな力になっていくだろうと確信しました。
 
富久千代酒造
posted by 鍋島 at 14:09 | 鍋島伝

2010年04月11日

5 「鍋島」を大きく育むための四つの信念

「鍋島」と「鍋島に関わる者」の真価が問われるのは、これからです。必ず成功させるという思いが強いほど道は開け、一人ひとりの自信も深まり、評価も高まると信じています。造り手と売り手だけではなく、道の途中から賛同された方々も、その一翼を担っているのです。
「鍋島」を品格のある酒に育てようと決意すると、どんなに大変でも決してあきらめることなく“前”へ進むことができます。そのためには、一人でなく素晴らしい“友”が必要であり、お互いが協力し励まし、才能を伸ばし合うことが大切だと思っています。

一、パートナーシップ(共生)

酒屋さんと蔵元は、親友あるいは夫婦のようなもの。その時だけ飲み、遊ぶ友達とは違います。たとえ遠く離れて暮らし、長いこと顔を合わせていなくても同じベクトルを持ち、お互いに良く理解し合える存在が不可欠です。
流行を追うのではなく、お互いの信念のもと、納得のいく商売を続けていけば、きっと消費者にもその思いが伝わると思っています。また、私たちは、鍋島を立ち上げ育てていこうとして集まったメンバーですが、考え方など狭い視野にならないよう柔軟に考え方をとりいれ刺激し合えるような関係(仲良しクラブでなく)でありたいと思います。

二、人と人の繋がり(ご縁)

人は、決して一人では生きていけません。努力を怠らず感謝の気持ちを忘れなければ、いろいろな方のご縁で必ず物事は上手くいくと信じています。

三、応援団づくり

毎月、一人でも多くの方に「鍋島」を薦めることで地道に、でも着実にファンを増やしていき、その中から一人でも多くの方に「鍋島」応援団になっていただけるよう、蔵も協力を惜しみません。

四、必ず成功させると強く思うこと(繋げていくために)

これまでに多くの地酒専門店さんや蔵元さん色々な方にアドバイスを受けてきました。その御恩にもこたえなければならない。それ以上に私たち(未完成の小さな酒屋・酒蔵)の真価が問われていること。そして必ず成功すると言い聞かせています。私たちの成功が次の世代の酒屋をやる人のヒントになればこれが一番の御恩返しだと思います。最終的には私たちが酒屋(酒蔵)を続けてよかった。次の世代に繋がってよかったといえるように。
富久千代酒造
posted by 鍋島 at 14:10 | 鍋島伝

2010年03月11日

6 「鍋島」を育てていくことの大変さ

特約店さんが、いざ鍋島を販売しようとしても、既存のお客様は、普通酒(上撰等)を愛飲していただいている方がほとんどで、1升瓶で2,000円から2,500円の商品はなかなか手に取ってもらえず、実際、年末の贈答用として売れることはあっても、その酒として楽しむお客様は皆無だったのです。
そこで引き続き「鍋会」と称して月に1回特約店さんと勉強会を継続して行いました。例えば。飲食店様のメニュー、贈答用のチラシ、試飲販売など、それぞれが実践したことの意見交換を行い、特約店さんによる新しい市場開拓(価格競争のない、品質重視の市場)に力を注ぎました。
特約店さんは「鍋島」を店の柱にしようと色々な努力をしていただきました。しかし最初から「鍋島」は思うように売れません。弊社は、既存の富久千代・泉錦を売っていただいていたディスカウントストアやコンビニエンスストア、やる気をなくした町の酒屋さんからは徐々に撤退していきました。
この時期は、鍋島の増える量より圧倒的に富久千代等の減る量が多く、数量・売上ともに激減していき会社としては、大変厳しい時期が長く続きました。私にはこの低迷期耐え忍んで先に進まなければなりません。この時期に失くした多くのものを取り戻す自信がありました。決して一人ではなく家族、社員、仲間、強い思いがあるからです。
弊社の創り出すその全てが鍋島であり県内・県外問わず鍋島(弊社)の思いは一つです。

2002年「鍋島」東京の試飲会へ

地元のことは、地元の特約店さんに任せられるようになったころ、フルネットさんからお酒の展示会のご連絡をいただきました。「いつか東京へ」と思っていた私にとって絶妙のタイミングだと感じました。東京は鍋島のブランド磨きには次へのステップ、当たって砕けろでは駄目だと考えていました。東京浜松町で開催されたこの会には、妻と3歳の娘の家族総出で参加。お客様の反応がものすごく良かったのを思い出します。

急激に増え過ぎたお取引先とコミュニケーション不足

これは、私の営業能力の低さが招いた問題で、「鍋島」の思いを上手く伝えることが出来ずお取引にも大変ご迷惑をおかけしました。

東京、多くの方との出会い。

ブランド磨きをするには貴重な出会いがある場所。日本酒、焼酎、ワインのファン消費者、サービスを提供する方、流通、蔵元さんから色んな刺激を受け考え、鍋島はちょっとづつ成長。
posted by 鍋島 at 18:01 | 鍋島伝

2010年02月11日

7 日本酒一筋に。鍋島酒造になれるよう

鍋島のブランド磨きのために。酒造りにこだわり、その良さを伝え続けたい。たとえ日本酒に逆風が吹こうが、日本酒の将来を思い語り続けなければならない。リキュールの話もありましたが、私が不器用で頑固?なのでブレることなく、「日本酒」を「鍋島」を大切に一人前になるように力を注ぎます。
日本酒鍋島
posted by 鍋島 at 18:13 | 鍋島伝

2010年01月11日

8 インディーズでいこう〜「鍋島」の未来予想図

インディーズ(Indies)とは「インディペンデント」の短縮系で、大手の系列に入らず、自主制作する音楽会社や映画会社、またはその作品をさします。いわゆる「メジャー」の反対語で、「マイナー」と近い意味合いです。音楽業界で言えば、インディーズ・シーンで活躍するアーティストが「鍋島」であり、それを応援するインディーズ・レーベルが「専門店」です。
小さな蔵の弊社は造ることに専念し、育てることは専門店様に任せる。このようにそれぞれの得意分野に特化し、クリエイティブな活動を目指していきます。もちろん、小さなライブ活動にあたるお酒の会などには積極的に参加し、造り手の“顔”も消費者に見えるよう努力します。
色々な酒蔵の生き方か有りどの選択が正しいではない。私は、小さな酒蔵とその当主の考え方が伝わりやすいのでこの道を選びました。

杜氏として〜「鍋島」を醸し出すこと

2002(平成14)年1月から前杜氏の井上富男(肥前杜氏)の後を継ぎ、飯盛直喜が杜氏として「鍋島」を醸し出しています。全量手造りによる麹造りや小仕込など丁寧な仕込み、貯蔵管理を行っています。まだまだ改善の余地は有りますが、少しずつ理想を追求していくつもりです。また、毎年テーマを決めて、造りに臨むようにしています。

努力を惜しまない

「鍋島」を生み、育てるのは不断の努力にほかなりません。スタッフ一人ひとりの努力の積み重ね、「鍋島」の個性をいっそう輝かせます。

情熱を持ち続ける

先頭に立つ者の情熱は、その蔵のスタッフにも伝わってやる気を高め、元気と勇気を与えます。酒造りは悩むこともありますが、総じて楽しいもの。そのワクワク感を持ち続け、常に蔵の雰囲気を明るくするよう心がけていきます。ときに蔵で音楽(サザンオールスターズ)を流し、気分転換にも努めます。
posted by 鍋島 at 18:13 | 鍋島伝